ベンジャミンバトン

昔読んだSF短編小説で、もうタイトルも作者も忘れてしまったが、時間を逆戻りで生きている女(一日一日の時間だけは順番通り)と、普通に生きている男の恋愛話というのがあって、これがすごく好きで何回も読み直した覚えがある。このお話のいたく切ないのは、2人の記憶が一度も重ならないということである。それはつまり一方が出会いだと思った日、それは一方にとって別れの日ということなのだ。そしてかつて愛した人が、自分のことをもう二度と知らないまま若くなっていくのだ。おおなんて切ない運命!子供ながらに僕は震えていたのだ。本当だ。

その英語版かなと思っていた『ベンジャミンバトン数奇な人生』は、体は逆戻りするけど、記憶は時間進行に順行する男の話だったので、ちょっと違った。出会いのときは2人にとって出会いであるし、別れのときは2人にとって別れであり、2人とも悲しい。ところが、体は逆戻りするのにも関わらず、脳の機能だけは順行していくという設定から、「医学的現象」のトリックでもって、結局はそのラストが上記のSFと非常に似たようなものになっていたというのが何とも示唆的で、かつて震えた自分を思い出した。「年をとると皆赤ん坊になるみたい。」っていうよくある言説から結局は発想を得ているのだろうね。『記憶』に関する壮大な寓話って言うとちょっと凄そうとか思うだろう。

だがしかし、話の構造としては凄いのに話に乗り切れないのは、長い話だから短くしなきゃいけないのは分かるけど、全部早回しにしちゃったみたいな編集で、何だか全編CM観てる気分しかしないっていうハリウッドにありがちなやつ。それなのに、なぜかケイトブランシェットが怪我するくだりとかに妙にこだわったりするという、いかにもフィンチャー的なナンセンスというか、目線の高さというか、やや悪趣味的なところが苦手だわ。この人前作「ゾディアック」でも飛ばしまくっていたけど、あれはまあ実話だし、許せたんだけどね。それでもラストに近づくにつれてよくなった。特に若いブラピが本当に若く見えるっていうのが不思議で、それだけでちょっと泣けるところがあって、それがこの映画最大の見せ場となった。

メモ:この話はニューオリンズに関する物語でもあったということに割とラストの方でやっと気づいた。というかそうでないとあのラストは理解できない。丁度カテリーナが通過した傷跡も深いかの地にAmtrackで訪れた四年前の二月を思い出した。ブードゥーとジャズの街(勝手な印象)。あれだけ人が死んだ災害からまだ半年なのに、街では「カテリーナにヤられちまった」と書いてあるTシャツが売られていて、「アメリカって・・」と呆れた。観光客のほとんどいないマルディグラ(カーニバル)を歩き、夜はジャズを聴いたりし、翌日には再びAmtrackでボルチモアへ。そしてそうかあの駅にはその数年前まで逆戻りの時計がかかっていたのか!