我が至上の愛 〜アストレとセラドン〜

エリックロメール86歳(or87歳?)当時に撮った、「最後の作品」という触れ込みの映画。2006年。以下ネタバレ注意。
 アストレとセラドンのお話は有名なものであるらしい。17世紀にオノレ・デュルフェによって書かれたこの原作を僕は当然のごとく読んだことはないが、ロメールは「アナクロニズムアナクロニズムのまま表現した」と語っているようだ。どこが具体的にアナクロニズムであったかといったことは僕にはよく分からないし、例えばガリア人が西洋史においてどういう位置にあるのかなんていうことも大事な要素であるのだろうが、その重要性はやはり僕にはわからない。但し、結局は主題は普遍的な愛(とエロス)なのであって、そういう意味では5世紀という舞台設定はなぜなのかということが、一つこの映画を紐解くキーではないかとは思う。もちろん僕にはロメールを語るという大それたことができるわけもないと思うのであるが、単刀直入に言ってこの映画の核はエロチシズムであると思う。この映画の最大の転機となる非常に印象深いシーン、それはセラドンが偶然にも、二度と会わないと決まっていたはずのアストレが、道に迷ってしまってしょうがないので道ばたで美しい脚を見せながら寝ている(!!)ところにばったり通りすがってしまうというところだろう。それを映す視線のエロさたるや、突如として入るナレーションの効果もあいまって、思わずゾクゾクしてしまう。そのシーンの感触は、こんな特殊な状況を正当化するためには5世紀という設定がおさまりがよかったのではないかという非現実的な推定までしてみたくなる説得力だ。その他、5世紀という時代設定そのものが、エロチシズムの布石となっているということにニヤリとさせられるところが何カ所もある。そして、牧歌的風景や、神聖なモチーフ、笑ってしまいそうになるこれまた牧歌的なある企み、(ロメールが映画の冒頭に宣言する「牧歌的」ということを5世紀やガリア人に押し付けているところ、これがアナクロニズムアナクロニズムとして表現するということなのかもしれないとふと思う。)などを積み重ねていったあと、ラスト数分のあの迸る官能にたどり着くのである。このエロさにどうして感動せずにいられるだろうか!そしてさらに引き続いての絶妙な幕切れのタイミングの決まり具合。僕は思わず緊張が解かれ脱力し、どういうわけか笑ってしまったのであった。