チェチェンへ アレクサンドラの旅

観ようか観まいか散々迷ったあげくに観た、観てしまったソクーロフチェチェンへ アレクサンドラの旅』。「太陽」以来の。ユーロスペース
独語の応酬、いまひとつぴんとこない翻訳、どこまでも続く黄昏、歪曲した画面、すべてがいつも通りのソクーロフでありながら、
それが「本当のチェチェンであること」(しかしこれは映画中全く語られないのであるが)と、本当に膝関節がくたびれきったままに肥大した老体が蒸し暑い中央アジアを行くその危うさが、この映画にいつものソクーロフと違う、現実的な感傷を画面の端々に感じさせるのであろうと思う。
現実と作為の合間を揺れ動くときに発作的に生じる感傷というか。(これはロードムーヴィに共通する事項と思われる。)

また言い換えると、
ロシアの大オペラ歌手ガリーナ・ヴィシネフスカヤチェチェンに立たせようという、想像するだにゾクゾクしただろうソクーロフの発想の瞬間こそが、この映画の勝利であり、全てであり、逆にそれ以上のものはこの映画から全く得られないと言えるかもしれない。
強欲にそれ以上のものを求めようとするのはとてつもない徒労であり、あるいはこの映画を憎悪する結果にもなりかねない。それくらいに危うい。その危うさこそがこの映画の価値なのである。(これは発想そのものを映画にしてしまった感のある「エルミタージュ幻想」と連続している)

以上のことに気づくまでに時間がかかってしまったのが残念で、映画を観終わったときにはそのラストシーンの老婆のごとくに疲れ果ててしまったのであった。