太陽はひとりぼっち

eupketcha2006-12-05


 今からもう六年前、昔住んでいた寮の、大先輩にあたる人が連れて行ってくれた早稲田のバーで、その教え子がマスターをやっているのだが、これがまた映画好きで、僕も映画好きなんですって言ったら貸してくれたのが「アントニオーニ 存在の証明」という本だった。今思えばその数年前に東京でアントニオーニレトロスペクティブが流行っていたらしくて、おそらくその人はその当時丁度どんぴしゃで学生をやっていて、当然のごとくアントニオーニファンになったと思われる。しかし僕が学生をはじめた当時からこっち六年間で、東京でアントニオーニがかかることはほとんどなかった。


 早く返そうと思ってはいたが、アントニオーニの映画を観る前に読むのもどうかと思って放置していた。そうこうしているうちにゴダールやカサヴェテスや清順やタルコフスキートリュフォーのレトロスペクティブにあくせくして、六年が過ぎてしまった。いまだに我が家の本棚にその存在が証明されている。果たしてあのバーがまだあそこにあって、僕のことを覚えていてくれるか甚だ疑問だが、いよいよ学生時代の終わりが見えてきてふつふつと気がかりになってきた。ゴダール「映画史」でもロッセリーニフェリーニヴィスコンティらと並んで「イタリア映画」の括りで恥ずかしいくらい絶賛されていたので、ますます気になった。

 
 「太陽はひとりぼっち」L'eclipse 1962 モニカ・ヴィッティアラン・ドロン主演、ジャンニ・ディ・ヴェナンツォ撮影。


 退屈だという言い方もできるかもしれないが、それはプロットとして退屈なのであって、客観的で冷徹な構図(たとえば写真のような)、被写体の動き、人物の交叉の仕方、風といった詳細に実にこだわりがあって、それは非常に緊張感ある映画全体の流れを作り出していて、格好よかった。この格好いいという言葉は「インテリ」と紙一重で使っています。モニカ・ヴィッティは決して好きではない。アラン・ドロンは凄い。映画は二人のどちらの主観ということでもなく、(本来は二人の主観それぞれの映画を作るつもりだったが、プロデューサーが許さなかったらしい)前述の通り、どのシーンも客観的で硬い感じを冷徹に徹底しているので格好いいのである。ときどきやりすぎのところもある。アフリカのくだりとか。が、全体として幽体離脱した感じの視線を提供してくれているのは、個人的にツボでした。そしてその冷徹感の極みかと思われるあの脱人間存在的なラスト。色々意見分かれるところだと思うが、私はまあ「格好いい」であのラストも括ってしまいたい。あるいは「若い」?


 CMでよく耳にするミーナの有名な挿入歌と、アラン・ドロンの人気で、本国イタリアよりも日本で流行ったらしい。今ならこういう作品特にああいうラストを平然と迎える作品が日本で流行ることはなくて、きっと「単館系」というよく考えると馬鹿にしてるのかしてないのかぎりぎりのラインの称号を与えられるんだろうな。撮影のヴェナンツォという人はこの翌年、あの「81/2」を撮影した。まだアントニオーニについて何かわかったきはしない。他の映画も観て、本読んで、ちゃんと本返しにいきますから、それまで待っててください、マスター。