顔だ!

eupketcha2006-07-23

ある若い男の横顔をよく観ていると老婆の顔になる騙し絵は誰しもが観たことがあるだろう。あのときの「顔だ!」と分かる感覚の素早さを想起してほしい。いちいちここに鼻があるだとか、ここに目があるだとか、ここが顎でここが口でとか考えただろうか。もちろんそういった細かい観察がきっかけとなって正解は導かれるだろうが、果たしてそれが「顔だ!」と分かるその瞬間というのは電撃的に一瞬のできごとである。たとえそこに鼻がなかったとしても、たとえ多少耳が変な形をしていても、それだから本当にこれは顔なんだろうかと疑う余地を差し挟む余裕はない。それと判れば一瞬で判る。それが顔である。というか、顔「のように見える」点や線の集まりである。


顔「のように見える」点や線の集まりを認知する神経回路があるという「顔ニューロン説」は、こういった経験で直感的に理解できる。少なくとも僕みたいなほんのちょっとだけ認知神経科学なるものをかじった人は、これはポップ・アウトという現象とよく似ており、きっと似たような仕組みが大脳皮質のどこかに用意されているに違いないと考えてしまう。そう言われてみれば、へのへのもへじが顔に見えて小さい頃感動したのもこの回路のせいだったか。漫画家はこの回路から受けた感動を根本に仕事しているのかもしれない。鼻のないクリリンも、ほとんどが直線で構成されるスネ夫でも、ちゃんと顔に見えるのはこの回路のせいに違いない。


顔が近づいてくるというのは、自然界において危険を感じる状況。顔ニューロンは危機を回避するために用意された回路と考えるとダーウィンも納得しそうだ。そしてこの理屈の延長によって顔ニューロン、特にちょっと異様な顔に対する感覚が恐怖と結びつくことが理解されてくる。人面魚、人面瘡、人面岩、人面犬に日本が大騒ぎをするのも、お岩さんの顔がただれてしまうのも、「私って、奇麗?」の口さけ女も、「それはこんな顔じゃありませんでしたか」ののっぺらぼうも、顔ニューロンが関連する恐怖の回路によってその輝きを放っている。世の中顔が全てと言い放ってあながち批判されないのも、あるいは顔の美醜にとらわれないということの尊さも、顔ニューロンが担保する。

顔の森

昔、この顔ニューロンに悩ませられたことがある。もちろん当時は小学生くらいで、顔ニューロンについて知る由もないが、今から思えばあれは顔ニューロンのせいだった。


うちは僕が小学校に入ったくらいから建て増しされて広くなり、今までなかった「自室」というのができた。二階の南向きの部屋。窓からいわゆる「紀ノ川」(うちの田舎では「吉野川」という)が見え、その奥に紀伊山地が険しい姿を見せていた。その「紀ノ川」の手前には伊勢湾台風の反省をいかした高い堤防があり、その堤防の先にかなり小さな森が見える。鎮守の森と言われるその森には御霊神社という神社があり、この街で流されて死んだ井上内親王の霊魂をまつっていた。


学校の宿題やら、受験勉強やら、年がら年中こういう景色を眺めながら過ごしていたわけだが、あるとき急にそれが怖くて出来なくなった。鎮守の森の木と木のあいだからぬっと顔が出てきてこっちを見つめていたからだ。突然木の枝に何か引っ掛かったのか、今までそこにあった何かが突然騙し絵のように顔に見え始めたのか、いまだにその正体は定かではないが、顔ニューロンを知る由もない幼心にその顔は何かの霊魂のあらわれに違いないと断定するにいたり、恐ろしくて夜も眠れないほどだった。


恐る恐る森まで行ってきたがその正体はよくわからない。あまりに毎日同じようにしているので、だんだん恐怖心もゆらいだが、やはり直視することができず、たまに怖いものみたさでカーテンをひいてちらっと観ては「うわ、怖っ」と思って、(その怖さに満足して)カーテンをひくという生活だった。それもだんだん刺激がなくなって、次第に直視できるようになり、「あれは、きっと誰か木につきささって死んでいるに違いない」とか「いやあれは井上内親王の御霊だ」とか「近所の天理教から来たのだ」とかあれやこれやと妄想して楽しむ対象となった。それもしばらくしてそれほど想像を発起させる力がなくなってきて、たまに古傷がいたむように思い出す程度になった。


東京に来てすっかりそんなこと忘れていた。今の部屋から観る景色はまさに「コンクリート・ジャングル」(死語)といった感じで実家の景色とはまったくパノラマが違うものの、窓に対する机の間取りが無意識的に実家と同じになっていて、実家でしてたのと同じように窓をながめつつ勉強しているようにいつの間にかなっていた。するとたまたまその田舎の窓から見える鎮守の森の方向と同じ方向に、つまり南西の方向に、マンションがあって、そのマンションの屋上に給水塔があって、その給水塔は塀で囲まれているんだけれども、ちょうどその塀にスリットのように開いているところがあって、そこから点検するおじさんが出入りするのがたまに見える訳だが、そこから給水塔の足が見えて、その足の下の薄暗いスペースに、最近顔が見えるのである。またお前か。こんなところまでついて来ていたとは。


ニューロンの役割は危機回避だけではないはずだ。人ごみの中で知った顔を発見できることから判るように、記憶にある顔を想起させることは、仲間を見つけ出すという意味で淘汰にも貢献するだろう。そしてそれはどちらかというと恐怖よりも安堵に関連しそうな回路だ。最近、スタバとか図書館で勉強するのをやめて家で勉強しているのも、この顔のもたらす安堵感からだ。懐かしさからだ。勉強に退屈すると、カーテンをひいて顔をみて、郷愁にひたって、また勉強する。そんな日々だ。