五月が気だるいのはよく考えれば当たり前だ。

問題は四月に浮かれすぎるのがいけない。新学期という言葉のせいか、新しい出会いの予感か、これから一年の期待やら欲望やらか、はたまた桜のせいか、四月はどうしても浮かれてしまう。これは日本人の宿命である。そして、一ヶ月たって思うのだ。一ヶ月ってこんなもんかと。そしたらあと十一ヶ月も大体こんなもんだと。天気が悪くなるせいもあるかもしれない。湿度が高くなる。虫も出てくる。桜はとうの昔に散っている。出会いなんてたいしたことない。そして日本人は五月を迎えるのだ。


病という言葉の麻薬的効果は自分の状態を正当化したような感覚にある。
「私、五月病なのー」「あー僕もー」
だらだらだらー
こうしてみんなでこの気疎さを正当化し、ますますやる気が出ないスパイラルに陥る。こうして日本全国津々浦々、どよーんとした空気が五月を包み込んだまま、梅雨前線が上昇してきてしまい、ひたすら夏へ期待するしかないという、国民的現象がおこる。まあこんなところが五月病の正体だろう。

何が言いたい

別に五月病の正体がわかったところで、「おいみんな頑張ろうよ」とかおちゃらけたことを言いたいわけではない。むしろ「病」なんてネガティブなこといわずに、折角なんで年に一ヶ月五月くらいだらだらしてもいいんじゃないかと。だらだら祭り。だってだらだらするの楽しいんじゃんねぇ。
「やる気でなくて楽しいね、あははー」
だらだらだらだらだらだらららららら
みんな楽しめば病とか言って、エクスキューズする必要もなくなる。


むしろ、「俺は五月病なんかならねぇぜ」然としてるそこの貴方にこそ、是非空気読んでほしい。折角ここまでリーズナブルにだらだらしてんのに「病」とか言って軽蔑するなと。のりおくれてるぜ。鈍感じゃないの?
さあみんなでだらだらしよう。日本の平和のために。