ヴィム・ヴェンダース講演会をだしに勝手につらつら語ってみる

立教大学にお邪魔してヴィム・ヴェンダース来日講演会聞きに行ってきた。そろそろ人気も陰ってるんじゃないかと思っていたが、予想以上の人手にびっくり。立ち見している人いっぱいいた。早めにきておいてよかった。ヴェンダース背が高いー、眼鏡おしゃれー、奥さんでかいー って周りの立教生の方が言ってた。


最後にヴェンダースが「なんで私の映画が長いかわかったでしょう。」と自虐的に言うほどに長い長い講演(三時間!)だったが、"the Sense of the Place" と題し、「物語は本来、場所や人々によって規定されるべきであるのに、現代の映画、特にアメリカの映画では、(商業化によって)物語が場所や人々に対して支配的になっている。この喪失は危機である。」という主旨にまとめられる、結構簡潔な話だったと思う。


SAYURI」とか「ラストサムライ」とか見てるとハリウッドって場所なんてどこでもいいんだねって本当に思うから基本的にヴェンダースの言っていることに共感はできる。ただ講演の中で、なんで物語が支配的になると危機なのか、なぜ商業的=物語なのか、なぜアメリカが悪いのか、といったところがぼやかされていた気がしないでもない。そもそも物語が支配的な映画というのは別に現代の映画に限らず、ずっと昔から作られているような気がする。歴史をたどれば、リュミエールにまでたどり着ける。今も昔も売れる映画というのはそう変わらないのではないか。ヴェンダース自身も言ってた、「世界中どこでも売れる映画は、普遍的な物語の映画」だと。普遍的な物語は時代を超えて存在するはず。


問題なのは、普遍的な物語なんかつまんないと思っている、「少数派」を見捨てるなということだろう。「物語なんていくらでも思いつく」ということにヴェンダースサム・シェパードとの対話で気づいたように、一部の観客もそう思っている。だからそういう路線の映画をなくしてはならない。でもそれほど危機的状況なのかね?個人的にはそういう観客と作り手が絶滅しない限り、物語に支配されない映画はこれからも作られて行くし、カンヌやヴェネチアはそういう人たちのためにあるんだと思うのでそんなに声を荒立てて言うほどの事は無いと楽観している。今までだってそうやって映画史ができてきたんじゃないか。


まあヴェンダースのようにファンの多い人が、日本の将来の映像作りにたずさわるかもしれない人たちに、こういった内容のお話をすることが今回の講演のもっとも意義深いところかもしれない。ひょっとして「SAYURI」や「ラストサムライ」が映画だと思っている可能性もあるからね。もっと言ってやっておくんなよ。


ただしである。さらに個人的な意見や思い込みの領域に入って行くが、最近のアメリカ映画は確かに面白くないけど、ヴェンダースよ、あなたの映画も面白くないよと偉そうに言っておきたい。講演を聞いていて気づいたのは、90年代あたりからこの人はちょっと自己分析を間違えたのではないだろうか。「ベルリン天使の歌」や「パリ、テキサス」がよかったのは場所だけでなく物語もよかったからであって、場所だけよかったわけじゃないだろう。自分のよさを「場所に対する感覚」だとしてしまったヴェンダースは、(すっかり映画オタクだった自分を忘れて)それ以降、なんだかある地域の写真集やミュージッククリップみたいな映画しか撮らなくなってしまった。「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」だって、あの人たちの音楽を聴いてみたくなったし、キューバには行きたくなったけど、映画として優れた物語が果たして想起されただろうか。(ちょっと喋り過ぎのナレーションに無理矢理物語を押し付けられてうんざりしなかったか。)結局、物語が想起されないのに場所だけ撮ってもしょうがないんじゃないか?言い過ぎか?言い過ぎだったらごめんなさい。でもほらあの最初に上映された短編のひどさと言ったらねぇ。「東京物語」において確かに東京という場所は変換不可能だった。しかし尾道はどうなんだろうか?