街へ出る

eupketcha2006-07-16

ここ数日の新聞は読み応えあった。レバノンが燃え、シリアに緊張が高まり、北朝鮮は結局皆適当に済ませようとする流れが強まり、インドのテロが早くも忘れられつつあり、サミットが迫っている。そんな中でゼロ金利が解除されたのだ。早速購買意欲を刺激された私は満員電車にもまれ、SALEに彩られる新宿にむかった。本当に久々に服を一着だけ買った。この暑さの中、楽しそうに買い物をしているすべての人たちに私は初めて尊敬の念を抱いた。すごいよ。そしてこの試着し放題の服の山は、君たちの汗と手垢にまみれて誇らしげだ。


今日は他にも用事があった。


まず、五島美術館でやっている「書の国宝 墨蹟」展(写真はこの美術館の庭)
http://www.gotoh-museum.or.jp/tenrankai/index.html
に行ってきた。墨蹟とは禅僧が残した書のこと。書は禅宗の誕生とともに新たな意義をつけられ、新たな輝きをもつこになった。その確かな証拠が見られる素晴らしい展覧会だった。カタログは何と5000円もしてしまったが、字が大きく写っていて、これなら臨書もできるなという感じだったので、ちょっと気張って買ってしまった。日銀よゼロ金利解除ありがとう。一月にやっていた国立美術館の「書の至宝展」といい、今年は書の当たり年のようだ。


夜新宿でシャンソンを聴いた。自慢ではないが、私の髪を3000円で切ってくれる人はシャンソン歌手でもある。おじさんおばさんに囲まれて人見知りを感じながら、産まれて初めてパリ祭というものを祝った。散髪屋さんがたっての頼みできてほしいと言うので、無理に学割をつけてもらって、それでも結構高くついたが、押しに負けた。こうやって日本の片隅で、シャンソンという文化は圧倒的に若者を寄せ付けないオーラを放ちながら生きていた。本当に世の中の人々は考えられそうな色んなことを必ずどこかでしている。問題はそれがどのようにして「見られるか」、あるいはどのようにして「露出されるか」にある。露出を拒めば、あるいは拒まれてしまえば、それでもうそれはあるようでなきがごとくとなってしまうのだ。アコーディオンの悲しい響きがそんなことを考えさせた。


散髪屋さんが歌っている姿にいつの間にか刺激を受けていて、夜道をうたいながら帰った。でもシャンソンは歌えないので中島みゆきピチカートファイブ。声量もないし、音痴だが、歌でも分析的に歌詞とリズムの相関を解釈して歌ってみると面白いことに気づいた。下手な感情は込めない方がいい。それよりも文節ごとの区切りを大事にすると、随分上手く歌っているように聞こえる。何年ぶりかに「カラオケに行きたい」と不覚にも思ってしまった。というわけで拷問に耐える自信のある勇者がいたらカラオケどうですか。明日になったら行きたくなくなっている可能性は否めません。