私の3.11

eupketcha2011-05-03


震災以来ほとんどブログを書く気も失せていたが、ようやく私の心の平穏が帰還しつつあるようで、画面に向かっている。といっても、何分かに一回は地震のことを考えている。その間隔が長くなっているだけだ。

あの日は、都内の勤務先で地震に遭ったが、不謹慎ながら帰宅困難者同士、地下の一室でひっそりと酒を酌み交わし、鍋をつついた。言い訳をすればあの日は被害の甚大さがまだ今ひとつピンボケしていた。テレビではあの痛ましい惨状が断片的にしか届いておらず、関東で起こったビルの壁の崩落といったものばかりが放映されていて(それでも十分恐ろしかったのではあるが)、東北の情報は非常に少なく、さながらブラックホールのようになっていた。また、助かった安堵と特殊な状況へ適応していこうとする最初の緊張感・まだ疲労のない爽快感のようなものがあり、ビールは残念なことに美味しかったのである。

結局、地下鉄が21:30頃に再開するというめどを聞きつけ、21:00頃に病院を出発。渋谷向きのバスに乗れるだろうと、世田谷通へ出た途端に、突如ざわめきに包まれた。歩行帰宅者で歩道があふれていて、夜のピクニックのような状態になっていたのだ。当然ながら普段はあり得ない光景である。そして西へ向かう道路は微動だにしない車が溢れて、単なる駐車場と化していた。ふと目の前でタクシーが空車になったが、私は歩く方が正解だろうと感じた。病院へ戻る選択肢もあったが、自室の状態が大変気がかりであった上に、この雑踏に参加したいという、不謹慎なお祭り感覚にいたっていたということもあった。

私だけではないだろう。雑踏の人々は、ヘルメットをかぶって不安気な人、家に早く帰りたいという焦りを顔に浮かべた人もいたが、多くの人はおしゃべりをしながら比較的に状況を楽しんでいるようであり、通りに面した店店には、この雑踏を眺めつつ、楽しそうに飲み食いしている人たちもたくさん見受けられた。その光景は、「これからどうなってしまうんだろう」という不安に包まれながらも、世界が変わった瞬間の不思議な新鮮さがあったわけである。さらに言えば、フライデーナイトであったことも重要である。もっと言うと、このとき原発のことは十分把握されていなかった。都心部の人々の心が真に落ち込んでいったのは、翌日以降であったと思われる。

東へ向かう車道は西に向かう道に比べ動いていたが、バスは一向に現れなかった。全てのバスが西向きの道路に停留していて、戻りのバスが帰って来れなかったのである。バス停に止まって少しばかり待ってはまた渋谷に向けて歩くということを繰り返したが、結局一台とすれ違うことなく、池尻大橋まで5-6km程を1時間程度で歩いてきてしまった。そこで、地下鉄に吸い込まれる人たちが見え、漸く再開したことを知り、私も階段をかけおりた。

再開の事実がまだ知られていなかったのか、不思議なことに、半蔵門線の押上方面は、むしろ空いていて、座ることができた。銀座線が最寄り駅だったが、銀座線の混雑を恐れ、そのまま半蔵門線で、神保町へ出た。23:00、神保町の交差点はどちらの方向へも進むことができない自動車が交差点の中を埋め尽くしていて、完全に機能停止していた。一体この自動車たちは家にいつ帰れたのだろうか。靖国通りを東に向かうと、突如ビルの谷間にスカイツリーが現れた。スカイツリーは曲がっていなかった。

東京医科歯科大学方面へ向かう坂をあがると、明治大学キャンパス内に多くの人たちが集まっていた。帰宅困難者のために開放されていたのだ。講堂で大勢が大画面に向かっていた。人並みをかき分けて講堂内に入る途端に、私の中のドンチャン騒ぎが血の気とともにさーっと引いた。画面の中で気仙沼が燃えていた。阪神大震災がフラッシュバックした。目の前で人が死んでいっている。自分の想像力は敗北していた。

シュレディンガーの猫を見るような思いで家に帰ると被害は驚くほどに最小限であった。壁にたてかけてあったホコリよけがパタリと倒れている程度だった。明らかに不安定にみえる、フラットなテレビは不思議なくらいにちょこんとそのまんまの状態でたっていた。テレビをつけると、とんでもない津波映像が既に流れ始めており、ただただ唖然と、それを見つめているだけで夜が更けた。