オオカミ少年

NODA MAP「南へ」を観てからオオカミ少年について、考え続けている。火山観測のオオカミ少年性を語るみちすじは「我々(火山観測員)はオオカミ少年であってはならない」と説く。いざというときに信じてもらえる信頼性を保たなければ行けないからと。しかし、ノリヘイは、オオカミ少年にはオオカミ少年なりの真心があると気付く。
思えば、医者の中でもオオカミ少年的な役回りの仕事をしている。端的に言うと、白黒のグラーデーションを識別して、病気が病気でないかを判断する役だ。この濃淡の中にのめり込んでいくと、突然にこういった危険性も考えられると思い始める瞬間がある。頭の中で警笛がなり、輪廻のごとく悩み続ける。この危険性があると公言して、「煽って」しまうべきなのか、オオカミ少年になることを恐れ、信頼性を担保するためにこの危険性の鐘が聞こえないよう耳をふさぐか。知れば知るほどこの悩みは解消されるものと信じてこの道に入ったが、知れば知るほどあらゆる危険性が想起されてしまうことに気付き、警笛は鳴り止まないのだ。そら恐ろしくなってきた。
一般的には確率に救いを求める。しかし今、目の前の人がその確率の低い方であったら、確率が低いといって切り捨てるのは、私に真心など存在しないと言うことになってしまわないだろうか。確率の低い方へ低い方へと流れていくのはそれはそれとして、非常に恐ろしく愚かしいことではある。かといって、確率に救いがあるかというとどうも違うと直感的に思う。例えばあなたは癌になる確率が30%もありますというと震え上がるかもしれないが、7割方癌にならないと言うと少し落ち着いて判断できるかもしれない。それでいいのかもしれない。でも、これでは言い方次第でどうにでもなってしまうということになる。
どうしたらいいか、正直分からないまま、4月を迎えてしまった。私の仕事の責任は一段高まってしまった。とりあえず、オオカミ少年になるかならないか、一個一個考えてやっているのだが、効率が悪すぎる。確率を超えて信頼できる法則が欲しい。まあ結局自分自身がruleになるっていうことか?アインシュタインよりはカントということか?こうして経験の名のものとにおごっていくんだろうな自分は結局。あーやだやだ。真心が救われないよう。